下瀬加

下瀬加の歴史

兵庫県神崎郡市川町、​下瀬加​(しも​せか)。
岡部川の​流れる、​瀬加谷の​入口の​村。
千三百年前の​地誌に、​名の​由来が​残る村。​

地名——風土記の「勢賀」

いまから​約1300年前に​編まれた​地誌『播磨国風土記』に、​「勢賀​(せか)」の​名が​見えます。​品太天皇​(応神天皇)が​この​地で​狩りを​して、​多くの​猪や鹿を​追い出した​ことから​名づけられた​——と​伝えられています。​瀬加と​いう​地名は、​この​「勢賀」に​由来すると​考えられています。​谷の​下手​(しもて)に​あたるのが、​下瀬加です。​

江戸時代——姫路藩の下瀬加村

江戸の​ころ、​この​村は​神東郡に​属する​下瀬加村で、​姫路藩の​領地でした。​慶長9年​(1604年)には、​池田輝政の​家臣・荒川半右衛門が​この​村で​150石の​加増を​受けた​記録が​残ります。​正保の​郷帳には​田方​505石余・畑方​113石余——山あいの​谷に​しては、​豊かな​田畑を​持つ村でした。​

郡天神——天満神社と姫路城主

村の​天満神社は、​古くは​「郡天神​(こおりてんじん)」と​呼ばれ、​国司の​崇敬を​受けたと​伝わります。​羽柴秀吉は​播磨平定の​おり武運長久を​祈って​5石を​寄進し、​慶長6年​(1601年)には​池田輝政も​5石を​捧げました。​宝永6年​(1709年)に​拝殿が​建てられてからは、​歴代の​姫路城主が​夏祭に​代参使を​立て、​神楽を​奉納したと​記録されています。​小さな​谷の​村の​社に、​天下人と​城主たちの​名が​連なっています。​

明治——瀬加村の大字へ

明治22年​(1889年)、​町村制の​施行に​より、​下瀬加は​上瀬加・上牛尾・下牛尾の​三つの​村とともに​合併し、​瀬加村の​大字と​なりました。​明治29年​(1896年)には​神東郡と​神西郡が​合わさって​神崎郡が​成立——市川を​境に​東西へ​分かれていた​古い​郡が、​ふたた​びひとつに​戻りました。​

昭和三十年から現在——瀬加谷の玄関口

昭和30年​(1955年)​7月、​瀬加村は​川辺村・甘地村・鶴居村と​合併して​市川町と​なり、​下瀬加は​その​大字と​して​現在に​続いています。​岡部​川ぞいの​道に、​食事処や​そば屋、​乳製品の​工房——いまも​人の​集まる、​瀬加谷の​玄関口です。​